⑩TMS研メルマガ一覧表

メルマガ第125号

御社はマニュアルを軽視していませんか?

 日本の製造業(工場)はかつて「職人文化」でした。ですから先輩は仕事のやり方を教えません。いわゆる「(俺の)背中を見て(技術を)盗め!!」という世界です。盗ませてくれる先輩はまだ優しい方です。私の友人(割烹の板前)の修行時は、洗い場の後輩に味を盗まれないよう、使った鍋に洗剤を入れてよこす先輩がいたそうです。これでは一人前になるのに十年かかるわけです。

 そのような職人文化の組織に、それを読めば仕事のやり方が分かる「業務マニュアル」など存在するはずがありません。親方や先輩のいじめに歯を食いしばって耐え、文字通り「血と汗と涙」の上に自分の業務マニュアルを頭の中に構築していきました。そうして自分の後輩も同様に育てました。人間とは、自分が育てられたようにしか育てられない生き物なのです。大昔から連綿と続くそのような職人文化も、1990年代に製造業で普及したISO9001によって終わりを告げました。同規格の要求事項に、「全業務プロセスの文書化」があったからです。

 今まで暗黙知だった業務プロセスの文書化作業は、大変な手間を要しました。あまりに大変だったため「ISO9001 ≒ 業務マニュアル作成活動」といった誤認識すら生まれたほどです。これによって業務プロセスの「見える化」および共有化は促進されましたが、マニュアル作成自体が目的化してしまい、ISO9001の形骸化につながりました。ISO認証は名刺のお飾りと化し、会社業績向上に繋がることはありませんでした。ある社長さんは私にこう言ったことがあります。「角川さん、我々経営者から見ると、ISO認証の取得・維持費用は、法人税、社会保険に続く「第三の税金」みたいなもんですよ(苦笑)」

 多大な経営資源(人・物・金・情報)を投入したにもかかわらず、ISO9001はなぜ会社経営に寄与できなかったのでしょうか? 本件について皆さんはどのようにお考えですか?

 ここで話は変わりますが、第二次世界大戦中、米・英・独各国は液冷エンジンを搭載した戦闘機(P51ムスタング、スピットファイア、Bf109等)を開発・使用しました。空冷エンジンに比べ断面積を小さくできるので、機体の先端をスマートにできスピードが出たからです。それに対し日本は液冷エンジンの自力開発を断念し、ドイツのダイムラー・ベンツ社からライセンスを購入しました。その際、当時「不倶戴天の敵」の関係であった陸軍と海軍がそれぞれ別々に50万円で同社から購入し、同社が首をひねったとの情けないエピソードがあります。当時の50万円は現在の60億円の価値があります。組織マネジメント不良(陸軍・海軍の反目)の代償は、実に高くつきました。納税者に対する犯罪行為と言えます。

 ドイツの傑作液冷エンジンDB601は、陸軍ではハ40、海軍ではアツタとしてライセンス生産されました。しかしこれほどの代償を払ったにもかかわらず、日本メーカーではこの液冷エンジンを上手く作れませんでした。そこでダイムラー・ベンツ社に基幹部品であるクランクシャフトの鍛造方法について問い合わせると、「えっ? そんなものも作れないのか?」とあきれられる始末です。空冷は作れる日本メーカーに液冷エンジンが作れなかった理由は、アメリカの戦略的な意地悪にありました。

 空冷にくらべると液冷エンジンの工作精度は10倍シビアです。そこでこの精度が出せる工作機械をアメリカに発注したのですが、当時日本政府の動向に警戒していたアメリカから体よく断られました。これがまともに動く液冷エンジンが作れなかった最大の理由です。80年前、工作機械を製造できたのは一部の欧米諸国だけでした。この悔しさをバネに、戦後日本は工作機械の分野で世界一になりました。

 この欠陥エンジンを積んだ飛燕の運用状況は悲惨でした。1942年4月、南太平洋のラバウル基地(パプア・ニューギニア)までトラック基地から1,300キロを飛んで搬送した時の話です。コンパスが狂う等のトラブルもあり、離陸した27機のうち、わずか15機しかラバウルに到着しませんでした。内10機は墜落(死者3名)しました。ただ飛んだだけでこのありさまです。長距離飛行は危険との判断から、翌年6月は島伝いに燃料を補給しつつ45機の飛燕を9,000キロ飛ばしてみました。しかしまたもや故障機が続出し、ラバウルまで到着できたのはわずか7機でした。故障機を修理し、最終的に33機を到着させたものの、残りの12機は修理不能で破棄されました。

 飛燕はもともとエンジンに欠陥があったうえ、その整備マニュアルの出来も劣悪でした。これは飛燕に限らず、陸軍・海軍すべての兵器の取扱説明書に共通する欠陥でした。太平洋戦争時において、日本陸軍の兵で軍用トラックを運転できる者は5%しかおらず、いわば特殊能力でした。対するアメリカ陸軍は女性(軍属)を含めて、ほぼ100%が運転できました。アメリカでは当時すでに農業用トラクターが普及しており、入隊時点で隊員の72%が運転できたこともありますが、入隊後の運転教育の違いも日米両国では「天と地の開き」がありました。

 日本陸軍の運転教育は「貨物自動車(トラック)とは何か」という全4ページの文章の丸暗記から始まり、一言一句間違わず言えるようにならないと次のステップに進めません(間違えれば鉄拳制裁)。当時英語は敵性語として使用禁止だったため、変速槓桿棒(=シフトレバー)等々の難解な漢字を覚えなければなりません。操作方法も丸暗記した上で、初めて運転席に座れました。その結果、たかがトラックの運転教習に3~4ヵ月かかりました。

 対してアメリカ陸軍の運転マニュアルは、漫画で書かれていました。教育係の鬼軍曹、やさしい女性教官のコンビで分かりやすく書かれており、読み物としても楽しく、やる気にさせます。その上、威張ってるくせにいつも失敗ばかりしている上等兵も登場し、やってはいけない危険な行為が逆説的に説明されています(これが記載されているマニュアルは上質です)。当然理解は早く、確実です。整備マニュアルも同様でした。またトラック以外の戦車・航空機等の操縦マニュアル・整備マニュアルも、すべて同じスタイルで書かれていました。

 日本軍精神教育に近いのに対し、アメリカ軍実用本位の教育でした。第二次世界大戦の敗因は日米の国力の差である、という説が主流ですが、『兵器の取扱説明書(マニュアル)』の出来・不出来の差と国力の差の間には、何の関連性もありません。単に物事の考え方(頭の柔軟性)の差に過ぎません。この事例をセミナー講師である私から見ると、日本軍の教え方には「教えてやるんだぞ!!」という傲慢な態度を感じます。対してアメリカ軍は教わる側に最大限の配慮をしている姿勢(お客様(生徒)は神様)を感じます。これでは教育成果に雲泥の差がつくのも当然の結果です。

 前述の三式戦闘機飛燕の操縦および整備マニュアルがもしアメリカのように漫画形式で楽しく書かれていたら、難物の液冷エンジンの稼働率も上がり、虎の子の搭乗員も南太平洋の藻屑(サメの餌)とならず、さぞかし活躍してくれたことでしょう。そう考えると、日本式マニュアルの罪深さがあなたにもご理解いただけることでしょう。

 ところであの戦争から早76年が経ちますが、御社の業務マニュアルは本当に使えるマニュアルですか? そして必要な時に、いつでもだれでもすぐに見られるシステムが整備されているでしょうか? 整備マニュアルが不出来なおかげで洋上でエンジンが停止、海面に墜落・戦死された若き搭乗員の命と無念の想いを無駄にしないでください。「たかがマニュアル、されどマニュアル」ですよ。

 御社は「マニュアル」を軽視していませんか?

【参考図書】 『日本軍小失敗の研究』 三野正洋 著 光人社刊
【参考動画】 梟軍事事務局 「三式戦闘機飛燕」
【参考サイト】 Wikipedia 「三式戦闘機飛燕」

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